ほとんど空になったグラスを傾けながら、不明瞭な歌が延々と続くのを聞いていた。音程もリズムもてんでばらばら、フレーズらしいフレーズもない。思いついた音をただ繋げただけの鼻歌だ。単調で面白みの欠けるそれを、九頭竜智生は先ほどから飽きもせずに歌っていた。一体何がそんなに愉快なのか、ゆるゆるとした笑みを浮かべた顔は酒精で赤らんでいる。その酔っ払いに膝を枕代わりにされて、辰宮晴臣は身動きが取れずにいた。 特にこれといった用事もなく、智生が土産片手に晴臣の家を訪れるのはよくあることだった。今日もご多分に洩れず、つまみを用意して、そこそこの量の曰く「いいもの」を持ってきた相方を迎え入れたのが数時間前。果たして相性が悪かったのか、あるいはいつもよりハイペースだったのか。特段酒に弱くはないはずの男は、気づいた頃にはすっかりとできあがってしまっていた。 普段よりもボリュームの上がった声で「そっち寄って」と並んで腰掛けていたソファの端に行かせたと思うと、我が物顔で人の腿に頭を乗せてきたのだった。脂肪の薄い足よりも柔らかなクッションは体を横たえるのに邪魔だったらしい。ちょうど伸ばした足の下に収まった一つを残して、さっさと蹴落とされてしまっていた。 「おい、智生。どけ」 「んー?……ふふっ」 文句を言ってみてもどこ吹く風。拍子を取るように自身の腿を叩いていた左手がソファの縁からだらりと下がる。 「……俺は飲み足りないんだが」 視線の先、ローテーブルにはまだ中身の入ったボトルが鎮座している。身を乗り出せば届く距離だが、右腿にのしかかった重石のせいで手に取ることは叶わなかった。すこぶる邪魔である。あわよくばこのまま大人しく眠ってくれれば抜け出せそうだが、目下その気配も見せずにいる。 基本的に九頭竜智生は自制心の強い人間だ。身一つを武器に勝つか負けるかの世界にいた経験からだろうか。一見すると破天荒な言動でも、その実これ以上はという一線の見極めは冷静で的確。突拍子のない我が儘に振り回されることはあるものの、晴臣を含めた周囲へのさりげない目配せは欠かさない。当然、酒の席においても「大人」な飲み方をする。大人なら人を振り回すのはやめろ、という文句は一旦脇に置くとして。 ただそれが晴臣の家で飲むときに限っては、稀にこうして羽目を外すことがあった。別に酒乱というわけではない。基本的には機嫌よくしているだけなので無害ではあった。ただ少し、普段の思慮深さが鳴りを潜めて無邪気な横暴さが前に出る。これがなかなかに面倒くさい。 「なに、難しい顔して」 ようやく満足したのか飽きたのか、気の向くままに続いていた鼻歌が止まる。三日月のように弧を描いた目がやおら晴臣を仰ぎ見て言った。 「……たちの悪い酔っ払いを大人しくさせる方法を考えている」 「あはは、それは大変だ」 「いけしゃあしゃあと……」 いたずらっ子のようににんまりとした顔はどことなく幼くあどけない。不覚にも、普段見ることのない表情に目を引かれそうだった。そのことが何となく癪で、「いい加減重い」と文句をつけるついでに額を小突く。とはいっても指の腹で叩いただけの軽い一撃だ。叩かれた方も人の気も知らないでからからと笑うだけだった。 「大丈夫大丈夫」 「……はあ」 何が、とかどこが、とかは聞くだけ無駄だろう。こうも埒があかないならいっそ無理矢理にでもどかせた方がいいかもしれない。もし拗ねられたらそれはそれ、適当に流してベッドに押し込みさえすればどうにでもなるだろう。そうだ、その後ゆっくり手酌で楽しめばいい。 そう結論づけて腰を浮かしかけたときだった。まるでタイミングを図ったかのようにぐっと腿に重みがかかった。 「はるおみぃ」 間延びした声が呼ぶ。そこに晴臣の行動をたしなめる響きはない。それこそただの酔っ払いがするように、気まぐれで呼んでみただけというような物言いだった。けれどそれとは裏腹に、ここにいろと言外に指図するように後頭部を足に押し付けてくる。この野郎。 「いい加減に、」 しろ、と。ため息混じりに言いかけて、不意に頬に触れるものを感じて言葉に詰まる。硬く角ばった感触は智生が伸ばした右手の関節だった。 相手は酔っ払いだ、勢い余って引っ掻かれでもしたらたまったものではない、と咄嗟に顔をそらす。するとまたしても行動を先読みしたかのように、手が今度は首の後ろへと回された。かと思うと後頭部に下へ引く力がぐっとかかって、晴臣は智生の顔を真上から見下ろす格好になった。 こいつは本当に酔っているのだろうか。あっという間の早業にされるがままになりながら、頭の片隅で思う。けれどとろりと下がったまなじりは確かに酔った人間のそれで、この乱暴な手つきも素面のときにはないものだ。 わずかに潤んだ瞳が晴臣をじっと見つめる。 「……っ」 深い夜の色だった。長いまつ毛に縁取られた紫水晶のきらめきは顔にかかった影のせいで今は身を潜めている。 静かで暗く、目を凝らしてみても見通せない。底知れない暗がりはどこか怪しくて危うく、だからこそ目を奪われた。この奥に隠れているものを探り当てたい。他の誰もが知ることの叶わない彩り、陰りをこの目で見てみたい。そう思って覗き込むほどに何も捉えることはできなくて、塗りたくったような夜の深さに飲み込まれそうになる。 「綺麗だなあ」 うっとりとした声が囁く。心の内をぴたりと言い当てるような一言に、本当に考えを読まれた気がしてどきりとした。そんなはずはないと頭ではわかっているのに、見透かすような視線が晴臣を狼狽えさせる。何が、と消え入るような声で問うても、ふふ、と笑みを深めるだけだった。 後ろ髪に差し込んでいた指がそろりと肌を這いまなじりに触れた。まるで壊れ物にでも触れるかのような手つきで、何かを確かめるように撫でていく。その間、新月を思わせる双眸からは目を離せないまま。 やがて満足そうな表情を浮かべたのを見て、はっと息を呑んだ。そこでようやく、智生もまた晴臣の目を覗き込んでいることに思い至ったのだった。 「俺のだ」 独善的な言葉が耳朶を打つ。うっそりと笑いながら、当然と言わんばかりの声だった。そこには酔いどれの戯言だと切り捨てるには有無を言わせない響きがあって。智生が言うのならきっとそうなのだろうと。もとよりそうあることが正しいように思われて、たまらず目を逸らした。
(2022-11-2)