静まり返った店内にテンポよく包丁を振るう音が響く。バイトもまだ来ない時間帯、一足先に店に着いた晴臣はひとり仕込みを始めていた。餃子のタネにするキャベツをざくざくと刻んでいくうちに、まだうっすらと残っていた眠気が覚めていく。今日は何となくいつもより早くに目が覚めたのだった。明るい日の差し込む店内は、まだ朝の冷たい空気をはらんでいる。  切り進めるうちにまな板を占拠しだしたキャベツをボールに移しながら顔を上げる。誰もいないはずのカウンター席には営業時間なんてお構いなしな不届き者がひとり。もとい、わかりやすく拗ねた顔をした相棒が、ちょうど晴臣の正面を陣取るように我が物顔で座っていた。  先ほどから頬杖をついてぶすっとしていたが視線に気づいたのだろう。しかし晴臣に目を合わせようとはせず、不平不満がありありと覗く声で「つまんねえの」と独り言のように呟く。 「突発で配信でもやってやるか? 適当な場所に繰り出してさ」  勝手に出てきて何を言うのかと思えば。智生がこうもあからさまに臍を曲げているのも珍しかった。勿論この男に限ってそんな意地の悪いことをするつもりは毛頭ないだろう。ただぶつける先のない不満にむかむかして、それを発散するように大きいことを言っているだけだ。 「やめとけ、大人げのない」  苦笑まじりにたしなめると、キッと睨むような目つきで見上げてくる。 「大人げ! なんだよお利口ぶって」  確かにこの相棒にそんなものを説くのは変な気分だが、 「そんなんじゃない。今日はあいつらの舞台なんだ。水を差すような真似をするなって話だ」  言い訳でもなんでもなく、都合をつけようと思えばつけられた。ただ自分たちには主催者としての立場があり、今回はプレイヤーではないというだけの話だ。  それはそうだけど、と言外に言い含められた智生が口を尖らせる。尚も不満げな表情にしれっと「そうだけど?」と先を促すように聞き返せば、これ以上の言い合いは不毛だと思ったのかもしれない。ややあって観念したようにため息をついた。  元より智生も道理は理解している。だからこそ先だって行われた顔合わせでも、いつも通り王者然とした様子で今日ステージに上がる面々を激励したのだ。その上でそのときはおくびにも出さなかった本心を、他の誰もいないこの場所で吐き出しているに過ぎない。 「あーあ、つくづくオーガナイザーってのも損な役回りだよ」  この際、満足するまで好きに言わせておけばそのうち気も収まるだろう。またそっぽを向いてぶつぶつと言い出しだ相棒をよそにそう結論づけて、晴臣はまだ切らずに残っているキャベツに手を伸ばした。 「百も承知だ。大体、お前だって了承しただろうが」 「しかも差し入れなんてしちゃってさ」 「おい、気に入らないからって何でもかんでも噛み付くな」  が、返した言葉を無視した上に小言を向けられては流石にむっとする。手を止めて抗議すると、智生は目だけをこちらに向けた。語気を強めた苦言にもどこ吹く風だ。 「自分だって出たかったくせに」  そうしてさらりと言われた一言に、今度は晴臣が反論に詰まる番だった。それを目ざとく見てとった智生がしたり顔を浮かべる。今の今まで不機嫌そうにしていたくせに。いやさてはとっくに気が済んでるな。  こいつ、と思わず舌打ちをする。けれど時すでに遅し、胸の内で燻っていた火がまんまと赤くなっていくのがわかった。  例え言い聞かせたところで、口を閉ざしたところで、抗えない欲求は、ある。あるに決まっている。あって悪いか。 「…………曲は作りたくなったな」 「ほらみろ!」  負け惜しみのように絞り出した一言に智生は手を打って笑った。不平不満を吐き出す先が欲しかったのは晴臣も同じだった。  けれどそれを気取られたのが癪で、話はもう終わりだとばかりにさっさと手元に視線を落とす。そう、そもそもこんなことにかまけている場合ではなかった。日曜日、少しすればライブのことなんて頭から離れてしまうぐらい慌ただしくなるはずだ。さっさと済ませてしまおうとまな板に置いたキャベツに刃を入れた。しかし智生はそんなことはお構いなしに尚も茶々を入れてくる。 「曲ってなに、お預けくらって悔しいって曲?」  茶化すような物言いは普段であれば馬鹿言え、と流しているところだ。けれどやられっぱなしなのも気に入らない。少し考えるように手を止めて、「いや」と否定した。 「せいぜい今のうちに楽しんでおけって曲だ」  呆れるでもなく淡々と返されて智生が目を丸くする。おふざけのような言葉に晴臣が乗ってくると思っていなかったのだろう。飄々とした相棒の虚を突かれたような反応に胸のすくような思いだった。と同時に、子どものようにきょとんとした表情がおかしくて、思わずふっと笑みがこぼれた。すると釣られるように智生も噴き出して言う。 「はは、大人げない!」

(2023-5-21)