湿った土と若葉の青々とした匂いが立ち込めている。日暮れ前に降り出した雨は暗くなっても止むことはなく、晴臣が居を構えている湖畔とその辺り一帯にざあざあと降り注いでいた。傘も持たずに水辺まで足を運んできたせいで、今や髪も服もすっかり濡れてしまっていた。 見上げた空では雷が瞬いている。時折、白く亀裂が入ったと思えば一際大きな轟音が鳴り響いてびりびりと空気が震えた。 湖面を打ち付ける雨と割れるような雷鳴が耳をつんざく。絶えず続くそれらの騒々しさとは裏腹に辺りは酷く静かだった。夜に目を覚ます者の姿は見えず、誰かが床で寝息を立てる音も、戯れで落ち葉をかき分ける音も今ばかりは聞こえない。雨音の合間から微かに漏れ聞こえる呼吸からは緊張と畏れが滲んでいた。眠りにつく者もそうでない者も、等しく息を潜めてこの気まぐれな嵐が去るのを待っている。 再び一閃。稲光で白んだ空高くに、雲の合間を縫って縦横無尽に泳ぐ影を見た。雷と共に現れ、自らもその光を纏ったそれは黄金の鱗を持つ一匹の竜だった。空を裂くような雷光にも分厚い雲にも霞むことなく、闇夜に浮かび上がる輝きに目を細める。怯え震える者には悪くも思うが、今しばらくはこの光をひとり眺めていたかった。 (……そういえば) いつだったか、何とかしろと文句を言われたことがあった。確かそのときは「無理だ」と突き返したのだったか、不満そうな顔をされたのを覚えている。向こうは晴臣の反応を横着と捉えたようで尚も食い下がっていたが――そも応えてやる義理もないのだが――無理なものは無理なのだから仕方がない。あれは天を翔ける竜だ。限りない空を本能の赴くままどこまでも自由に、高く遠くに飛んでいく。そうあるように生まれた者を御することなどできはしない。 遥か上空、吹き荒ぶ風をもろともせずに悠々と竜は行く。しばらくぶりの雨だ、このままどこか別のところへ行くのかもしれないな。そう思いながら目で追っていると、中天に差し掛かるや急に旋回して、目にも止まらぬ速さで雲の上へと昇っていった。やがてそれについていくように雷鳴も遠ざかっていく。 ごう、と一陣の風が吹いた。葉ずれの音が山裾から晴臣の立つ湖畔にまで伝播していき、それを合図に息づく者の気配が恐る恐る動き出す。いつもの如く、来るのが気まぐれなら去るのも気まぐれな嵐であった。見上げた空には黄金の残滓も既になく、覆いかぶさった雲がただ恵みの雨を落とすばかり。そのことに口惜しさを感じながら今夜はもう眠りにつこうと踵を返す。歩を進めるごと濡れた裾が足に張り付いて纏わりつくのが煩わしい。思わず悪態をつきかけた、そのときだった。 後方で背を向けていても目が眩むほどの閃光が走った。何かと反応する間もなく、次いで鼓膜を破らんばかりの轟音が天地を揺らす。普段のざわめきを取り戻しつつあった空気を断ち切って、再び緊張をはらんだ静寂が落ちた。 振り返った先、落雷に打たれた地面は黒く焼けて、草花の焦げた匂いと共に白い煙が立ち上っていた。歪な円形をした焦げ跡の中心には晴臣とほとんど同じ背丈の男がひとり。その体の周りでは稲光がばちばちと耳障りな音を立てながら爆ぜて、ぼうっと辺りを照らしている。水を弾いているのか蒸発させているのか、その衣服はほとんど濡れておらず、柔らかな金糸に水滴を纏う程度だった。 「もういいのか」 おもむろに尋ねると、ついさっきまで頭上を好き勝手に飛び回っていた竜は恍惚とした笑みを浮かべた。紫電を閉じ込めたような瞳の中、縦長の瞳孔は捕食者を思わせる鋭さを湛えている。しかしそれも僅かな間のみで、まばたきをするとすぐ人好きのする顔になって、 「腹減ったな。何か食べるものない?」 あっけらかんと言ってのけた。今の今まで恐れを振り撒いていたことなど歯牙にも掛けずに。それは別に構わないのだが、 「お前はもっと大人しく降りて来られないのか」 「あはは。そこはほら、久しぶりの雨だから興が乗ってさ」 つい、と言いながら降り立った竜――智生は髪についた水滴を振り払うようにかぶりを振った。実際に振り払われたのは髪の合間から覗く二対の角が未だ帯びていた稲光の方で、その名残りが消えるや降り頻る雨が容赦なく体を濡らしていく。 「そのつい、でねぐらの近くを黒焦げにされる側の身にもなってみろ」 そこ、と地面を指さして文句をつけると「ごめんって」と軽い声。 「でもそのうち元に戻るだろ? 寧ろいい土になって育ちもよくなるかも」 「そういう問題じゃない。いたずらに人の縄張りを荒らすなと言ってるんだ」 付け加えるならただ雷が落ちるのとはわけが違う。以前も同じようにして消し炭になった橅木の周りには未だ草の一本も生えていない上、ただならぬ気配に気圧されて誰も寄り付こうとしない。さもありなん。 たしなめるような目を向けると本人としても思うところはあったようで、頭をかきながら気まずそうにさっと目を逸らした。 「……今度からは気をつけるよ」 「そうしてくれ」 この約束が守られるかは別として、反省はしているようなのでひとまずはよしとする。しょぼくれた知己を尻目に、晴臣は今度こそ帰ろうと踵を返した。
どこか遠く、別の空からかすかに雷鳴がする。突然の来訪者を連れ立って家に帰る道すがら、肩越しにちらと後ろに視線を送った。他愛のない話をしているうちに、すっかり気を良くしたらしい。ぬかるみを進む足取りは軽く、つい少し前まで自由気ままに翔けていた雨空を見上げる顔は満足げだった。 釣られるようにして晴臣も頭上を見る。生い茂る青葉で縁取られた空の中に、目に焼きついた黄金を見たような気がして人知れず口許を緩めた。雨はまだ止みそうにない。
(2022-11-17)